伊佐城(筑西市)概要: 伊佐城の築城は不詳ですが天慶年間(938〜947年)、藤原秀郷が平将門の乱(承平天慶の乱)平定の為築いた城郭とも云われています。伝承によると秀郷は当地域に上館・中館・下館の三館を設け、その中館が伊佐城になったと伝えられています(上館は久下田城。下館は下館城)。
又、天永2年(1111)に藤原実宗(藤原定任の長男)が常陸介として伊佐郡を本拠とし伊佐氏を名乗り築いたとも、その曾孫である伊佐朝宗(常陸入道念西)によって築かれたとも云われています。
朝宗は奥州合戦の功で奥羽伊達郡(福島県伊達市桑折町)を与えられ、2男の宗村と伊達郡に移り伊達家(後仙台65万石の大大名)祖となったとも言われています。嫡男、為宗は当地に伊佐氏の名跡を引き継ぎ当地に留まり、以後は伊佐氏の居城となったようです。
南北朝時代になると伊佐城は南朝方の拠点の1つとなり伊佐氏の一族である伊達行朝が城主となり北朝方の高師冬(関東執事、武蔵・伊賀守護)と攻防戦が繰り広げられました。康永2年(1343)、主戦場だった大宝城や関城が落城すると当地方の南朝方が総崩れとなり伊達行朝はじめ伊佐氏も奥州へ本拠を移し伊佐城は破棄されその後廃城になったと考えられています。
伊佐城は五行川(勤行川)を天然の堀と見立てた平城で僅かに周辺より若干高く、最高部の本丸から南側に二之丸、三之丸などの郭があり随所に土塁や空堀が設けられていたようです。現在は伊佐城本丸跡には観音寺の本堂が建立され郭の形状や櫓台、土塁、空掘の一部が残され昭和10年(1935)に茨城県指定史跡に指定されています。
又、当地は奥州伊達家の縁の場所として江戸時代に入ると城内にあった観音寺に仙台藩主伊達家から数々の寺宝が寄進されています(伊達氏の由来は諸説あり下野中村(栃木県真岡市中村城)説もある)。旧城内には伊達宮内大輔行朝公塔や下館藩主石川総管墓所、中館観音寺本堂などがあり歴史が感じられます。
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