【 概 要 】−結城朝光は平将門の乱の平定や三上山の百足退治の伝説などで知られる藤原秀郷を祖とする小山家の家系で小山政光の3男として生まれています。生母は源頼朝の乳母である寒河尼(網戸尼)である事から早くから好を通じ、治承4年(1180)の頼朝挙兵の際には陣所となった武蔵国隅田宿に訪れて14歳になった朝光を紹介、頼朝は朝光の元服に立会った事で烏帽子親となり頼朝の「朝」の字を賜って朝光に改名したと伝えられています(このような経緯から結城朝光を頼朝の落胤説があります)。
当初は寝所の警護や御剣役など常に頼朝の側近として重用され寿永2年(1183)志田義広の乱の恩賞として結城郡の地頭職に任命されると地名から結城氏を称するようになります。木曾義仲の追討や平家追討にも従軍し文治5年(1189)、奥州藤原氏の掃討戦である「奥州合戦」にも従軍し特に阿津賀志山の戦いでは大功を挙げ陸奥国白河荘(白河3郡)が与えられています。建久10年(1199)に頼朝が死去すると梶原景時との権力争いとなりますが景時排斥により政争(梶原景時の変)に勝利し幕府内の地位が確立しています。
その後は鎌倉幕府御家人の1人として重要視され承久3年(1221)の「承久の乱」では東山道の大将の1人に任命され、嘉禎元年(1235)には評定衆にも名を連ねています。建長6年(1254)に死去、享年87歳、戒名「称名寺殿日阿弥陀仏」。菩提寺である称名寺(結城市)は朝光が晩年、親鸞聖人の教えに強く帰依した為、建保4年(1216)に真仏(親鸞聖人の高弟)を招き創建、自らは出家して「結城上野入道日阿」と号し戒名に因んで称名寺と呼ばれました。称名寺境内には朝光のものと伝わる墓碑(多層塔)や寒河尼の墓、大将塚(伝:頼朝の遺髪を納めた供養塔)などが建立され称名寺本堂には木造結城朝光像が安置されています。
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