【 概 要 】−小田家は藤原道兼の3代後裔の藤原宗円が宇都宮家を興し、宗円の子供である宇都宮宗綱が常陸八田領を領し八田家を興し、宗綱の4男八田知家が筑波郡小田領を領し小田城を築いた事から小田氏を称するようになりました。知家と跡を継いだ知重は鎌倉幕府御家人として活躍し、後裔は常陸国守護職を担うなど大きな勢力を築き上げました。南北朝の争乱では当時の当主小田治久は南朝方の有力武将の1人として北朝方の佐竹氏と対立しましたが、南朝の衰退に従い不利に推移し興国3年(1342)高師冬の侵攻により小田城が落城し北朝方に降伏しています。逆に佐竹氏は功績が認められ高師冬の裁断により常陸国守護職任ぜられ小田家は今後劣勢に立たされる分岐点となっています。降伏後は足利尊氏に従い信太・田中・南野荘など旧領の一部が与えられ「応永の乱」や「上杉禅秀の乱」なども足利方として戦功をあげたことで一定の信任を得ています。
永享10年(1438)の「永享の乱」では鎌倉公方足利持氏に与した為、幕府軍に掃討され領地の一部が減じられています。享徳3年(1455)の「享徳の乱」後の北関東は混沌となり小田家も状況に応じて公方足利家と関東管領上杉家との間を行き来し、さらに南進に転じた佐竹氏とも対峙しました。戦国時代に入るとさらに混沌を極めましたが、当時の当主小田政治は積極的に旧領回復に努め国人領主として地位が確立しています。跡を継いだ氏治の代には小田原北条氏が台頭し、それに与した結城氏により度々領内に侵攻され弘治2年(1556)には小田城が落城する事態に陥りました。氏治は事態打開の為、北条氏に与しましたが、逆に佐竹氏の南進を招き、何度も小田城が攻められ落城、復権を繰り返しながら徐々に衰微していきました。
永禄12年(1569)、佐竹義重の侵攻により小田城が落城、氏治はこれを機に大きく領地が削られ、天正11年(1583)に殆どの領地を失ったと推定されています。その後は今で言うゲリラ戦を展開し天正14年(1586)には藤沢城を奪還し、さらに天正18年(1590)には小田城に奇襲をかけましたが、佐竹氏家臣の梶原政景によって防がれています。その後は結城秀康に従い秀康の越前転封に随行し常陸国から離れています。法雲寺(土浦市)は正慶元年(1332)、当時の常陸国守護職小田治久が開基となり復庵宗己を招いて開山したのが始まりとされます。以後、法雲寺は小田家の菩提寺として庇護され寺運も隆盛し、寺宝には紙本著色小田政治肖像画(室町時代末期:茨城県指定重要文化財)や紙本著色小田氏治肖像(室町時代末期:茨城県指定重要文化財)など数多くの小田家縁の品を所有しています。又、法雲寺境内には小田氏治の墓、小田氏累代の墓が建立されています。
|