三好家住宅(行方市)概要: 三好家住宅は武家住宅の流れを汲む遺構とされます。案内板によると「 三好家は麻生藩主新庄氏の常陸入国に伴って、客分として特別の待遇を受けた。後に藩士となり、数代に渡り、藩の家老職を勤めた。特に維新期に藩の権大参事になった琢磨は、旧麻生藩の整理と士族授産、更に、郡・県政などに大きな功績を残している。現在の居宅は明治13年の建築ではあるが、式台玄関や間取りに昔の武家住宅の様式を伝えている。麻生藩の藩士は、陣屋を取り囲むようにして屋敷を構えていた。 麻生町 」とあります。
三好貞良家文書によると祖である三好七郎右衛門は摂津飯盛城(大阪府大東市及び四條畷市)の城主で、織田信長に滅ぼされ、浪人になった後に新庄家に仕えたとあります。飯盛城の三好氏で織田信長に滅ぼされたとすると、織田信長包囲網を一角を占めた三好三人衆が著名ですが、その内の三好政康が右衛門大輔政勝を名乗っている事から、当三好家はその後裔かも知れません。一般的に三好政康は永禄11年(1568)に織田信長の侵攻により勝竜寺城(京都府長岡京市勝竜寺)と淀城(京都府京都市伏見区納所北城堀)が落城すると総崩れになり、当時の居城だった山城木津城(京都府木津川市)を退去し行方不明となっています。
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