旧弘道館(水戸藩:藩校)概要: 弘道館は水戸藩9代藩主徳川斉昭の命により水戸城の三之丸に天保11年(1840)に藩校として建てられ天保12年(1841)に仮開校しました。(本開校は制度が確立し鹿嶋神宮の分霊の勧請、孔子廟の完成を経た安政4年:1857年)。当初の教授頭取は会沢正志斎と青山拙斎、学校奉行には安島帯刀が任命され文武両道を教育方針として藩校運営がなされました。
弘道館内部には正政庁、文館、武館、医学館、至善堂、神社、孔子廟、八卦堂など多くの建物が配置され、兵学、漢学、和学、音楽、天分、地理、数学、医学など多くの学問を学ぶことが出来ました。当時の全国の藩校から比べても革新的な教育がお粉吾で現在の総合大学に近い存在だったとされ、生涯学問を学ぶ姿勢から卒業が無く高齢になっても弘道館で学ぶ人も多かったとされます。
幕末には第15代将軍徳川慶喜も弘道館で学び大政奉還の後は水戸藩に帰参し至善堂で蟄居しています。当時の水戸藩は保守派と呼ばれる諸生党が藩政を握っていた為、慶喜を再び担ぎ出す恐れがあり、すぐさま駿府藩に移封させ、諸生党も排斥されました。
水戸藩は再び改革派とされる天狗党が実権を握りましたが、明治元年(1868)東北地方を転戦した諸生党は再び水戸に舞い戻り弘道館を占拠し、弘道館を巡る攻防戦が繰り広げられその兵火により文館・武館・医学館などの多くの堂宇を焼失しました。
明治4年(1871)に廃藩置県が発令されると明治5年(1872)に閉校となり校庭は公園として整備され残された施設も維持されていましたが昭和20年(1945)には太平洋戦争で被災し八卦堂・孔子廟・鹿島神社などの建物を失いました。
弘道館は現在でも正庁(入母屋、桟瓦葺)、至善堂(寄棟、桟瓦葺)、正門(切妻、本瓦葺、四脚門)が辛うじて残り昭和39年(1964)国指定重要文化財に指定されています。又、旧弘道館敷地全体が昭和27年(1952)に国指定特別史跡に指定されています。
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