多賀谷城(下妻城)概要: 多賀谷城は康生元年(1455)多賀谷氏家(祥賀)によって築城され寛正2年(1461)に完成したとされ、以来、多賀谷氏の居城として随時拡張されてきました。山城的な要害ではないものの、東西が沼と河川(小貝川・鬼怒川)、南が湿地帯、北には7重の掘りと土塁を築いたとされ南北1.5キロ、東西0.9キロに及ぶ広大な城域を持っていたようです。
多賀谷氏は享徳の乱の際、結城氏の家臣として敵対する上杉憲忠を討ち取る大功を挙げ本拠である下妻荘を含む33郷を安堵されると国人領主として確立し、多賀谷城を拠点として勢力を拡大し結城氏からも次第に独立するようになりました。
多賀谷氏は領内の整備や城下町の整備、大宝八幡宮の再建、社寺の庇護なども積極的に行い戦国時代には主家である結城氏を上回る領地を掌握し天文3年(1534)以降は完全に対立関係となりました。戦国時代末期には佐竹氏に従属し、天正18年(1590)の小田原の役で豊臣秀吉に臣下の礼を執った事で6万石の所領を安堵されます。
ただし、独立は認めらず結城氏の与力となった為、多賀谷三経を結城氏の与力として3万石、佐竹義重の4男である宣隆を養子として迎え、独立した大名家としての多賀谷家3万石を擁立しました。慶長5年(1600)の関が原の戦いでは東西中立を保った佐竹氏と共に積極的な軍事行動を取らなかった事により改易となり主家となった佐竹氏に随行し久保田藩(多賀谷氏は檜山領主(所預)に赴任しています。)に下向します。
その後、慶長11年(1606)に徳川頼房が10万石で入り下妻藩を立藩、多賀谷城(下妻城)は下妻藩の藩庁、藩主居館として機能しましたが、元和元年(1615)からは松平忠昌、その翌年からは松平定綱が入り定綱が遠江掛川城に移封されると多賀谷城(下妻城)は廃城となりました。
現在は多くの遺構は失われましたが、本丸周辺のみが僅かに面影が残り「多賀谷城本丸跡」として昭和52年(1977)に下妻市指定史跡に指定されています。
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